正気じゃいられない
昨今の就職活動を経験した人ならば、エントリーシートを作成したことのない者などいないだろう。
インターンシップからのエスカレーター内定をもぎ取った勝ち組の面々も、インターンシップに向けたエントリーシートは書かされたはずだ。
さて、諸君はエントリーシートをいつ、どこで書いていただろうか。
早起きした朝?授業の合間の昼?
学校内?ノマド気取りで居座ったカフェ?
私の場合、ほとんどのエントリーシートの原稿は、夜中〜明け方に作成していた。
このブログの更新とほぼ同じ時間だ。
夜中の方がインスピレーションが湧いて作成が捗るから、という理由も勿論あるが、メンタル面の問題もあった。
少し頭のおかしい状態でなければ、エントリーシートを書けなかったのだ。
最近でいえば午後ティー女子の件でもわかるように、女子においては特に、自尊心や自意識を強く主張することは疎まれる行為とされる風潮がある。
前に前に、自分が一番、というような態度は、嫌われるのだ。
場合によっては、「チョーシ乗ってるよね」「イキってるよね」などと陰口を叩かれ、日常生活において不利益を被ることもある。
できないことを「できる」といって失敗すれば、信頼は地に堕ちる。
謙虚に、控えめに。一歩引いて。空気は読んで。
決して過大評価はせずに。
そういうことを意識して生きてきた人間が、「自己PR」なんてそうそうできるものか。
自分をよく見せるための文章など、すらすら書けるはずもない。
長所や特技のひとつだって、「こんなことはみんなできる」「この程度ではアピールできない」と書きあぐねて数時間も悩むほどだ。
だから私は、深夜テンションに任せ、勢いでエントリーシートを書き上げるしかなかった。
自己否定と闘うためには、自律神経を狂わせ、理性を抑え込むしかなかったのだ。
できることよりもできないことを指摘され、得意なものにはさらに上がいると見せつけられながら生きてきた。
いつからか、何を褒められても「いやいや、私なんて大したことない」と思うようになってしまった。
自己PRに悩む人は、自分を褒める勢いでとりあえず周りより自信のあることを書いてみればいい。
相手は自分のことを知らないし、どの程度できるのかもわからない。
「おっ、すごいな」と思わせれば勝ちだ。
自分の取り柄が見つからないなら、とりあえず自分の愚痴を聞く友達の気分になって、自分自身を褒めてみればいい。
どんな小さなことでも、思い当たった時点でそれは長所であり、取り柄だ。
面接までは顔も見えないのだから、謙遜は要らない。
勢いしかないような文章の方が、案外、人の心を打ったりするものだ。
狂気は正気より強し。
選ばなければ売り手市場
売り手市場で就職活動が楽になっていると外側からはよく言われるが、そんな気はしない。
企業も新卒生の確保に必死というが、それも中小企業が主であろう。
結局、人気企業はいつでも人気だし、いつでもたくさんの就活生が涙を呑む。
採用数が少ない上に新卒の募集を出している企業自体が少なく、なおかつ人気があるのは、エンタメ系と出版系ではなかろうか。
テレビ、音楽、映画なんかはいつだって人気が高い。
映画で思い出したが、過日に話題となった、とんねるずの木梨憲武氏がラジオに出演した際の出来事はご存知だろうか。
今春に大学を卒業したものの、フリーターとなっているリスナーが「自身の才能がわからない」と投稿したことに対し、木梨氏が「(『いぬやしき』の)試写会にとりあえず来い」と招き、東宝サイドに紹介するという約束をその場で取り付けた出来事だ。
さて、SNSなどでは美談として語られているが、本当にそれは美談なのだろうか?
まず、当該リスナーは「興味があった」とは言ったものの、映画業界に対して情熱があるわけではない。あくまで、「才能の見つけ方」について尋ねたのである。
勿論、トライアンドエラーは重要であるが、そこまでの道筋も自分で模索すべきではないのだろうか。
スカウトを受けた場合はその限りでないにしろ、はっきりと「やりたい」と思うほどでなく「興味があった」という程度の状態でぽんと業界に放り込むのは早計ではないかと思う。
もうひとつは、斡旋先が「東宝」であるということだ。
先に述べたように、「東宝」に限ったことではないが、映画業界の新卒求人は少なく、激戦は免れない。
どれだけ映画に情熱を持ち、どれだけ主体的に映画に関わっていたとしても、それを直接アピールする機会さえ与えられない者も多くいる。
それは学歴であったり、提出書類の完成度であったりという部分が影響するのかもしれないが、その場合はいくら熱意があろうと、面接にすら招かれないのだ。
端的に言えば、ずっと憧れ続けても入社できず、涙を呑む就活生が多くいる企業だということだ。
万年人不足の中小企業とは違うのだ。
学歴、経歴、熱意。そのすべてが評価され、数段階の選考を経て、ようやく内定を勝ち取る。
それが、本来の新卒生が歩むルートである。
説明会や選考のたびに時間を作って足を運び、選考期間には緊張した時間を過ごし、選考の際にはプレッシャーと闘いながら担当者と相見える。
そうした過程をすべてすっ飛ばして、苦労することなく急に担当者と話を繋いでもらえる。
その「コネ」が、果たして本当に彼のためになるのだろうか?
恐らく、彼は「自社制作作品の主演である木梨憲武の紹介」ということで、邪険に扱われることはないだろう。
「とりあえず働いてみて」という木梨氏の言葉通り、とりあえず採用され、どこかしらの部署に配属できることと思う。
しかし、入社後、彼はどんな目で見られるだろうか。
「コネ入社」のレッテルを貼られた彼が、厳しい選考をくぐり抜けた新卒生たちと同じラインに立てることはまずないだろう。
親心として放っておけなかったという気持ちはわからなくもない。
しかし、そう簡単に第三者が介入していい問題でもない。
ともすれば、人生そのものに関わる問題だからだ。
「とりあえず働いてみる」ことが大切なのはわかるが、どこで働くかも自分で決めてこそ、本当にやりたいことを見つける手がかりとなるのではないだろうか。
ネットでは「縁の力」「神対応」などと評価されているが、現在の就職活動を経験し、周りの就活生の様子も見聞きしてきた身としては、どんなに憧れても入社できなかった就活生がいる一方で、何の実績もないのに「コネ」で話をつけてもらえる就活浪人生がいるという状況は、あまりにもやるせないと感じてしまった。
また、彼の行く末についても心配だ。
不意に用意されたその道は、自分の才能ややりたいことと合致していないかもしれない。
だが、赤の他人に世話をしてもらった以上、そう易々と抜け出ることもできないだろう。
「とりあえず仕事できたからこれでいいや」
そんな風に、彼は思考停止して働くだけの人間になりはしないだろうか。
本当に、才能ややりたいことは見つけられるのだろうか。
就活は就活生の心を殺す。
かといって、安定と引き換えに自主性とリスクを奪われた就活生もまた、静かに心を殺されるのかもしれない。
ESと人生
自分とは果たして何なのだろう。
などという哲学的な疑問は普通に生活していればおよそ抱かないだろうと思うのだが、私の場合はそれを就活中に幾度となく自身に投げかけることになった。
エントリーシートと履歴書は違う。
エントリーシートは、ただ経歴や志望動機を書けば良いのではなく、自身の経験や人間性、つまり人生を、限られた紙幅の中に落とし込まなければならない。
とはいえ、各企業のエントリーシートで問われる内容はそれほど大きくは違わない。
しかし、だからこそ起きる現象がある。学校教育の中で、誰しもが一度は経験したことのあるであろう、あの現象。
「ゲシュタルト崩壊」だ。
繰り返し同じ文字を書かされることで起きる、「これはなんだ?これは本当に合っているのか?」という混乱現象。
それが、ただの文字ではなく自分の人生であると考えてみてほしい。
人生について、同じような言葉で、同じような内容を綴る。
その中で生じる、「自分はなんだ?今、何を書いているんだ?」という混乱。
自分で自分がわからなくなる焦燥。
コピペすればいいのに、と思われるかもしれないが、私の場合は受けたほぼすべての企業で、手書きでの提出を求められたのだ。
運良く、書類選考では大体通っていたので良かったものの、人生の縮図ともいえるエントリーシートを提出し、その時点で志望企業から弾かれることが何度も起きていたら、早めに狂っていたのではないかと思う。
自分の人生と向き合い、時にそれに対して疑念や焦燥を抱きながらエントリーシートを作成する作業は、端的に言えばしんどい。
精神をゴリゴリ削られる。
SAN値が下がっていくのを感じる。
ひとつひとつ、丁寧に作成しているほど、ダメージは大きくなる。
エントリーシートは就活生の人生が詰まった書類だ。
各企業の採用担当の方々には、それを理解してほしい。そう軽々しく踏みにじり、破り捨てて良いものではないのだ。
そう思えば、サイレントお祈りなんてできないはずだ、そうでしょう?
既卒ニートのくらし
今年の春に、4年制の私立大学を卒業した。
都の何とかでお馴染みの大学だ。一応Fランではないと信じている。
しかし、4月が終わり、5月になった今なお、私は定職に就かず、バイトさえもせずに、家事手伝いをしながら暮らしている。
同期が初任給で焼肉や寿司を食べている今、実家で親に寄生してニートとして暮らしているのだ。
起業するとか、そういう気持ちがあるわけじゃない。単に、就職活動に失敗したのである。
類は友を呼ぶとでも言うべきか、私の周りには就職活動に失敗した同期が多い。
彼ら彼女らの多く、いや全員が、何かしらの形で今年以降も大学に残り、就職活動〜シーズン2〜に挑んでいる。
ある者は大学院に進学し、そしてある者は意図的に取得単位を減らして学部に残った。
すなわち、留年である。
この手段は「就活留年」と呼ばれており、それほど珍しいものではないのだが、それについてはまた追々。
我々のような就活失敗生の意見として共通するのは、「就活は新卒生の心を殺す」ということだ。
メンタルの強弱は関係ない。じわじわと、しかし確実に心が軋み、ひび割れ、壊れていく。満たされた環境に在り、自分に対してそれなりに自信を持っていればいるほど、ダメージは大きくなる。
3月の就活解禁、4月の説明会・面接ラッシュを経た5月の今、就活生の皆は落ち着かない日々を過ごしていると思う。もう内々定を持っている人も出始めているだろうから、焦っている人もいるかもしれない。
でも安心してほしい。とりあえず私は生きている。内定が取れず、4月から新卒で入社できなくても、死なない。軽い鬱にはなったけど。
さて、長くなってしまったが、このブログでは私の失敗談や就活を通して学んだことや考えたことを思い出して、主に深夜〜明朝のテンションのままに供養していきたいと思う。一言でいえば自己満足である。ちなみに愚痴や悪口は他人に話して発散するタイプである。
私もピロートークぐらいのゆるい気持ちで書くので、その程度のゆるい気持ちで読んでくれたらいい。読まれなくても書く。ただし、推敲などはしないので読みにくいのは大目に見てほしい。
それでは、このぐらいで寝るとしよう。あでぃおす。